エピソード1: 武士から蒸気機関車へ

人口:3200万人(1850年時点)

人口:4400万人(1900年時点)

日本は、江戸時代徳川幕府のもとでの侍や封建制度の大名と主に農民が占める社会から、明治時代の西洋式スーツ着用、産業革命、西洋式議会、政府、軍隊へと変わった。

多くの日本国民や学者はその概要を知っているのだろうが、果たして日本の産業革命では実際に何が起こり、どのようにして現代に至ったのだろうか。

明治時代はわずか45年であったが、日本に急激な大変化をもたらした。その主な原動力は、植民地化という現実の脅威を回避するために、統一国家として独自の力と影響力を高めつつ、西洋のやり方を取り入れて日本を近代化しようと考えた一握りの有力者たちの不退転の姿勢であった。

侍からスーツへと、平穏な移行が行われたわけではない。血なまぐさい争いの結果としてもたらされた、この権力の移行に反対する人たちがたくさんいたのだ。

1853年、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が、ミシシッピ号を中心とする巨大な黒船艦隊を率いて来航し、開国を要求したのがきっかけで、日本は西洋に開国した。1年間にわたる長い審議の末、1854年、幕府は日米和親条約に合意した。

ここから事態は怒涛の展開を迎える。1863年から64年にかけて、薩摩長州という有力な大きな藩が、イギリス軍、そして国際連合軍に攻め込まれたのである。当初、薩摩と長州の大名たちは、植民地化を回避するためには外国人を日本から追い出すしかないと考えていた。しかしその考えを改め、1866年、かつてのライバル藩は密かに薩長同盟を結び、日本を植民地化しないために近代国家を急速に建設していく。

徳川幕府が急速に力を失いつつあることを証明するいくつかの紛争を経て、最後の将軍である徳川慶喜は若い明治天皇に権力を譲ったが、徳川はまだ朝廷の後援を受ける上級指導者になることを望んでいた。しかし、薩摩と長州は別の考えを持っていた。薩摩と長州は、自分たちの策略に反対する勢力を壊滅させるために、暴力的で容赦のない作戦を開始したのだ。

1868年、薩長同盟が京都御所を武力で占拠し(2003年の映画「ラストサムライ」でドラマ化)、皇室復古の詔勅を発した。このクーデターこそが、明治維新の誕生とされている。しかし、血で血を洗う戦いはまだ終わっていなかった。戊辰戦争の発端となった紛争では、明治新政府軍が徳川幕府軍を一掃し、徳川慶喜は江戸へと逃亡した。

そこで、明治政府軍が追撃。5万人の軍隊が江戸を包囲したが、交渉の結果、江戸城を平和的かつ無条件に降伏させることに成功した。これにより、壊滅的な総攻撃は回避され、徳川慶喜は無事であった。しかし、明治政府との戦いは1869年まで北日本で続き、幕府の最後の支持者が敗れ、すべての藩が新しい日本国家に領土と国民を明け渡した。

天皇は江戸城に移って皇居とし、江戸は東京と改名して首都となり、元号も明治に改められた。

1871年、藩は正式に府県に取って代わった。しかし、1876年に明治政府が刀の携帯を禁止し、世襲制の俸禄を廃止したことで、さらなる対立が生じ、武士階級が激怒して薩摩の乱が起こった。明治政府軍は再び多くの犠牲者をもたらしたものの、最後の武士の反乱は鎮圧された。1889年、権力者や思想家などの有力者が激しい議論を重ねた末、日本初の憲法である「明治憲法」が制定された。

この統一国家によって、日本は、他のアジアの国々が経験した、西洋の大国に植民地化されるという悪夢のような状況から解放されたが、経済的な平等はもたらされなかった。帝国政府、大名、政治的影響力のある人々が主導権を握り、彼らの仲間によって財閥が築かれるという身分階級制度がまだ根強く残っていた。下層に近いのは商人や農民で、さらにその下に部落民がおり、彼らは汚く、誰も望まない仕事を任されていた。

近代化とともに工業化も急速に進み、人口も急増した。